第5回 山科神社

 山科についてご紹介していく「山科めぐり」。5回目の今回は、山科一帯の「総社」とされてきた、山科神社を紹介します。


伏見稲荷大社の反対側、「神の山」の神社

▲山科神社に向かう途中の坂。高台にあり、登っていくのも一苦労だが、そのぶん見晴らしがよい。

そもそも山科(やましな)とは珍しい読みかたですね。 この名は古く、7世紀にはあったそうです。
 もともとは、「しな」とは坂道や階段を表し、山がなだらかな斜面となって盆地になっている地形からつけられた、と言われています(※1)。 古くは「山階」と書かれることが多かったそうで、現在でも「山階(さんかい)小学校」という学校の名前に残っています。

 山科の西側にある小高い山が稲荷山です。この山は古来から神の山として知られており、西の山麓に位置するのがあの伏見稲荷大社であり、そして東の山麓に位置するのが山科神社です。
 今年の5月に紹介した「大石神社・岩屋寺」よりもさらに奥へ登って行ったところにあります(岩屋寺はもともと山科神社の神宮寺です)。


地元の豪族の祖神から地域の産土神に

 

▲全景。手前に拝殿、奥に本殿。ここまで上がってくる人は多くはなく、ひっそりと佇んでいる。

 社伝によれば、山科神社は897年宇多天皇の勅命で創建されました。宇多天皇は菅原道真を重用し、藤原氏の政治を抑えようとしたことで有名です。
 建立当初は、宇多天皇の義母の家系であり、山科を本拠としていた宮道(みやじ)氏の祖神でした。祭神は宮道氏と縁の深い日本武尊(やまとたけるのみこと)、稚武王(わかたけるのおおきみ)です。
 もともとは宮道氏の祖神でしたが、中世に入るとしだいに地域の産土神的存在として地域に根差していきます。官祭だった「山科祭」も、鎌倉時代以降、しだいに地元住民の祭りに変化していきました。(※1)
▲境内にうっそうと茂る木々が歴史を感じさせる。


苦難の時代を乗り越えて現在へ

 

▲本殿。山科神社が最も栄えていた室町時代から建っている。
 室町時代には、幕府の庇護を受け、「山科一ノ宮」(山科で第一の宮)と呼ばれて丹波や山城に山林や田畑などの広大な社嶺地をもっていました。しかし、応仁の乱では戦火に巻き込まれま、被害を受けました(貴重な資料の多くもこのときに失われました)。
 江戸時代に入ると、徳川幕府によって社領の多くが没収されます。さらに明治初期には社寺上地令により、境内地も著しく減少し、大きな打撃を受けました(これによって現在と同じくらいの広さになりました。なんとか奮闘の時代を乗り越え、現在に至ります(※2)。
 2015年には、1120式年大祭事業の一環が開かれ、摂社・末社などが改修されました。
▲鳥居。灯篭(上の全景左下)同様に、江戸時代の初めころに建てられたとか。
▲2015年に改修された摂末社の覆屋。写真は夷社・山王社・稲荷社の三社殿。ほかに愛宕神社・弁財天社・天満宮社・春日社・竃神社が並ぶ。


 

参考文献

※1)山科神社史編纂委員会(編).(2017).『山科神社史』.イーブックマイン.
※2)吉川弘文館編集部(編).(2010).『京都古社寺辞典』.吉川弘文館.

2020年10月12日