第7回 勧修寺

 山科についてご紹介していく「山科めぐり」。7回目の今回は、来栖野(くるすの)にある勧修寺(かじゅうじ)を紹介します。


醍醐天皇のゆかりの地

▲山門。参道の脇には、白い築地塀が続いている。
 勧修寺は、醍醐天皇の発願により創建されました。
 母・藤原胤子(ふじわらのたねこ)の冥福を祈るため、祖父である宮道弥益(みやじいやます)の邸宅を寺に変えたとされています。
 平安初期、鷹狩の折に山科の宮道弥益の家を訪れた藤原高藤(ふじわらのたかふじ)はその家の娘を見初め一夜の契りを交わします。ふたりのあいだに生まれたのが、醍醐天皇の生母である胤子です。
 勧修寺は江戸時代に再興されてから門跡寺院(皇族・公家が住職を務める寺院)となっています。
▲宸殿。明治時代には小学校(勧修小学校)の校舎として使われたとか。
▲皇室とゆかりのあることから、裏八重菊の紋様が寺紋になっている。


ユニークな「勧修寺型灯篭」

 

▲書院。宸殿のすぐ隣にあり、庭園を見渡すことができる。

 書院前庭には水戸光圀(いわゆる水戸黄門)寄進と伝える石灯籠があります。
 大きな傘をもち、長方形が基調となるユニークな形で、この灯篭をもとにして各地で似た形の灯篭がつくられるようになりました(「勧修寺型灯籠」と呼ばれる)。
灯篭の周りに生えている低木はハイビャクシンといい、樹齢750年と伝えられています。
▲水戸黄門が寄進したとされる雪見灯篭とハイビャクシン。
▲庭園のさざれ石。庭園には様々な草木が植えられており、秋には紅葉が楽しめる。


平安時代の面影を残す庭園

▲観音堂。観音様を除き見ることができる。てっぺんには鳳凰が飾られている。
 庭にある氷室池は、創建当時からこの地にあったと言われています。
 かつて豊臣秀吉が伏見街道をつくるときに半分埋め立てられましたが、江戸時代の復興の時期に合わせて庭園全体が修復されました。
 大きな池を中心に、その周囲に園路を巡らせる池泉回遊(ちせんかいゆうしき)式庭園になっております。
 山並みが美しく、初夏には睡蓮が咲き、冬にはマガモなど渡り鳥が渡来します。
▲氷室池。古くは毎年正月にこの池の氷が五穀の豊凶を占うために宮中に届けられたとされる。
▲氷室池のマガモ。睡蓮のあいだを優美に泳いでいた。


 

2020年11月19日