山科めぐり

第1回 折上稲荷神社──女性守護のお稲荷さま

 山科についてご紹介していく「山科めぐり」。今回は、弊社のすぐ近くにある折上稲荷神社の宮司さんにお話を聞いてきました。


最古の稲荷神社


▲稲荷塚の写真。長年信仰されてきた結果、登ってみるとところせましと史跡が集まっている。

 日本各地に広くみられる稲荷信仰のおおもとは、有名な伏見稲荷大社だと言われています。
 じつは、その伏見稲荷大社と同時に創建されたと言われている神社が山科にあるんです。それが折上稲荷神社です。
 創建は奈良時代の711年。伏見稲荷大社の奥宮(同じ神を祀りながら、地形の関係から三九郎社。脇から本殿を守っている本宮から離れた山の頂上や山中にある神社)として奉斉されたと伝えられています(※1)。
 祭神は倉稲魂神 (ウカノミタマノカミ)ほか二柱。いわゆる稲荷大神です。もともとは1500年前から人々のあいだで信仰の対象だった「塚」に、稲荷大神が降りてこられた、と言われています。この「塚」は古墳時代につくられたものと考えられており、「中臣十三塚古墳群」と呼ばれる古墳群のうち現存する2墳の一方です(※2)。
 社名の由来には諸説ありますが、神様が降りてきたから「降り神」だ、という説もあるそうです。


働く女性の守り神

▲本殿。女性芸能人や実業家がお忍びで来られることもあるという。

 稲荷神はもともとは五穀豊穣をつかさどる神ですが、近世以降に各種の産業が発展していくに従って、次第に商売繁盛にもご利益があるとされるものとされてきました。
 ここ折上稲荷神社は、「織り神」に通じることから、とくに織物の関係者から人気があったようです。歴史上に名を残してこそいないものの、たしかに西陣織を支えてきた女性たちがよくお参りに来られたとか。
 江戸時代ころには宮中の女官たちからご利益は「折り紙」つきだとして評判だったようです。
そのいわれから、現在では仕事をしている女性、働く女性の守り神として知られています。就職試験前に来られる女性もいらっしゃるとか。
 女性の守り神の由縁から、6月にある折上稲荷祭では、女性も神輿を担ぐことが許されているそうです。これは京都の神社のなかでめったにないことです。

三九郎稲荷社

▲三九郎社。脇から本殿を守っている。

 稲荷といえば狐というイメージがあります。一説によるとこれは、稲荷大神の別名である御饌神(ミケツカミ)が三狐神(ミケツカミ)と書き当てられたことから来ています。
 折上稲荷神社にはまさに三匹の狐を祀っている「三九郎稲荷神社」という境内社があります。人間が生きるうえでの三大苦労──人間関係・健康・お金を除いてくれると言われています。
 
▲本殿前の狛犬。稲荷神社では狐のいることが多いが、折上稲荷神社では狐が別に祀られているために本殿前には狛犬が座っている。

 

稲荷きつね折り上げ守

▲稲荷きつね折り上げお守り。前かけの色は風水に応じて毎年変わるとか。

 折上稲荷神社に来る人に人気なのが、「稲荷きつね折り上げお守り」です。最近は神社のお守りといえば袋のお守りが多いですが、伝統的な紙のお守りです。
 宮司さんが一枚一枚手づくりして、一つ一つに江戸時代からある神様の印を押しているとか。たくさん注文が来ると生産が間に合わないので、TVの取材も断っているという限定品です。
 インターネットから郵送も受け付けており、全国から発注があります(こちらから)。働く女性へのプレゼントとして買う人もいらっしゃるとか。

※1)『日本の神仏の辞典』(2001)大修館書店

※2)ふるさとの良さを活かしたまちづくりを進める会(2019)『京都山科中臣遺跡』


折上稲荷神社Webサイト:https://origami-inari.jp/

2020年03月09日

第2回 大石神社・岩屋寺──「忠臣蔵」ゆかりの地

 

 山科についてご紹介していく「山科めぐり」。2回目の今回は、時代劇の「忠臣蔵」で有名な大石神社と岩屋寺を紹介します。

 徳川綱吉の時代、江戸城で播磨赤穂藩主の浅野長矩(ながのり)が遺恨のあった吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りかかりました。当時は喧嘩両成だったのに、将軍綱吉は浅野に切腹を命じ、赤穂藩の取り潰しを決めたいっぽうで、吉良にはお咎めなしでした。これに不満を抱いた浅野の家臣たち(赤穂浪士)47人が主君の名誉を回復するため上野介を殺害し、仇討ちを成し遂げた事件をもとにしたのが「忠臣蔵」です。

 大石神社は、この「忠臣蔵」の物語の主人公である大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を祀っている神社です。


大石内蔵助が「忠臣蔵」の作戦を練った地

▲稲荷山のなかにある岩屋寺。山科全体を一望でき、この景色を見ながら仇討ちの作戦を練った内蔵助の思いが偲ばれる。。

 赤穂藩は播磨の国、つまり今の兵庫県南部にあったのに、どうして大石内蔵助を祀った神社が京都の山科にあるのでしょうか。
 赤穂藩が取り潰しになったあと、内蔵助は住む場所を探すのに同じ浅野家の家臣で、親戚(妻の姉婿)にあたる進藤源四郎を頼りました。この進藤源四郎が山科の西野山の名士であったため、内蔵助は山科に住むことになったのです。
 内蔵助は1701年に山科へ入り、1年4ヶ月ほど住んでいました。1703年初頭に吉良邸へ討ち入るまで、内蔵助はこの地で仇討ちの作戦を練りました。一説によれば、内蔵助が山科を選んだのは閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利で事件の善後策を講じるのに何かと便利だったからと言われています(※1)。
 より正確に言えば、内蔵助が住んでいたのは大石神社の近くにある岩屋寺の北隣だったと言われています。岩屋寺の本堂に安置されている不動明王は大石蔵之介の念持仏だったとされ、内蔵助は討ち入りが成功したあと、邸宅や田畑などの一切を岩屋寺に寄進しました(※2)。

▲岩屋寺本堂。横にある茶席は大石邸の古材で建てられているという(※2)。


「忠臣蔵」の広がり

▲大石神社に建てられた旅姿の大石内蔵助の銅像。今では参拝しに来た人々の願いがかけられている。

 内蔵助ら赤穂浪士たちによる討ち入りは、江戸の社会に衝撃をもたらしました。
 武士の人々には、士農工商の身分制度の上に安逸をむさぼっていることへの危機感を与えました。いっぽう、町人の人々からは「義挙」(正義のための行動)として評価され、幕府の一方的な処置への批判を吹き飛ばすような快挙として喝采を浴びました。
 その影響は、事件落着後すぐから歌舞伎や浄瑠璃の格好の題材になったことからもうかがえます。この事件を題材にしたなかでも最も有名なのが、1748年から演じられるようになった浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』です。この9段目において、内蔵助の「山科閑居」が初めて独立した位置づけを与えられるようになりました(※3)。この作品は浄瑠璃三代名作の一つとされ、内蔵助と山科の関係が広まるのに大きく貢献しました。


京都の人々による創建

▲大石神社入口。「府社」と書いてあるのが確認できる。

 大石神社が建てられてのは昭和に入ってから、1930年代のことです。
 発端は四十七士の義挙を顕彰する神社を建てようとする浪曲師・吉田奈良丸の提唱でした。この提唱に京都府・京都市が賛同し、府知事を会長とする大石神社建設会によって大石神社が創建されました(※3)。
 明治期から近代にかけての神社の区分では、神社は国家が管理する国幣社(こくへいしゃ)と、氏子や崇敬者によって維持される府県社や郷社に分けられます。大石神社は京都府が主導して建てられた由縁から府社にあたり、今でも大石神社の入口には「府社」と書かれています。
 とくに府県社には人臣を祀る神社が多く(※4)、人格への崇敬と宗教的な崇拝が結びつけられていきました。大石神社の創立も、こうした流れに与するものとしてとらえることができます。


「大願成就」のご利益

▲狛犬。大石神社はいくさの神様としてもたたえられ、そのためか戦中にあった金属の供出でも銅の狛犬は供出されなかったと言われる(※1)。

 冷静に作戦を練り仇討ちという大挙を果たした四十七士を祀っていることから、大石神社は「大願成就」の神徳でたたえられています。
 ご神木は「大石桜」とされています。これは、ご鎮座のときに大石内蔵助の隠棲の地に生育していた「しだれ桜」を整備の終えた境内に定植させたものです。
 今も境内にはたくさんの桜があり、春にはお花見客が絶えません。
▲拝殿。本殿は流造だが、伊勢神宮のような神明造の特徴である千木や鰹木を置いている。府知事が建設会の会長をしていたためとも(※2)。


注・写真は2020年4月7日に非常事態宣言が出されるより以前のもので、お昼休みに撮られております。
2020年4月現在のこの情勢では不要不急の外出はお控えください。
※1)鏡山次郎.(2017).『京都山科史跡楽訪』.山科・史跡楽訪の会.

※2)ふるさとの会歴史街道・史跡巡り部会(著),鏡山次郎(編).(2018).『山科辞典』.ふるさとの良さを活かしたまちづくりを進める会.

※3)後藤靖,田端泰子.(1992).『洛東探訪―山科の歴史と文化 』.淡交社.

※4)森岡清美.(2003).「明治維新期における藩祖を祀る神社の創建―旧藩主家の霊屋から神社へ,地域の鎮守へ―」.『淑徳大学社会学部研究紀要』,(37),125-148.

大石神社Webサイト:http://www.ooishijinja.com/

2020年04月16日

第3回 砥の粉工場見学


 山科についてご紹介していく「山科めぐり」。3回目の今回は、砥の粉(とのこ)をつくっている進藤譲商店株式会社様にお邪魔してきました。 

「砥の粉(とのこ)」とは?

▲進藤謙商店の砥の粉には赤・白・黄の3種類がある。もともと赤が漆の下地として使われており、白は白木に、黄は桐にとくに使われるという。
 砥の粉とは、木材の加工で用いられるきわめて細かい粉です。
 水を加えて木に塗り付けることで、木材の「目止め」(※1)をするのために用いられます。
 また、漆の「下地」(※2)に用いられるため、漆器屋さんにとってなくてはならないものでもあります。
 かつては学校教材として使われており、50代以上の人は「技術」の時間に触れたことが多いとか。

 砥の粉生産は200年ほど前から、漆の下地のため始められました。
 往時は一大産業であり、西野山地域には30~40軒の砥の粉屋さんがあったとか。
 しかし、漆器がプラスチックに取って代わられるにつれて砥の粉産業は衰退し、今では全国で山科でしかつくられていないとのことです。

※1 「目止め」:木材表面の小さな孔を埋め、均一な面にする処置。塗料が下地に過度に吸い込まれることを防ぐほか、木材の質感を出す効果や耐用年数を上げる効果がある。

※2 「下地」:漆器づくりで、器の形が完成したあと、表面を整えて漆が塗れる状態にする工程。


砥の粉をつくる工程1 採集

 山科で「砥の粉」がつくられるようになったのは、砥の粉の原料となる土が山科・西野山地域にある「稲荷山」で豊富だったから。 
 稲荷山から、赤・白・黄、それぞれに適した土をプロが見分けてユンボなどの機械で採ってきます。

▲砥の粉の原料になる頁岩。きわめて風化しており、触るだけで細かい土にばらけてくる。

▲稲荷山からとってきた原料の山。左が黄、右が赤の砥の粉になるもの。白は山の下のほう、黄は山の中腹、赤は山の頂上近くから採られるという。


砥の粉をつくる工程2 粉砕

 まずは細かい粒にしていくために、原料を砕きます。
 原料、水、そして粉砕用の硬い石を下のようなトロミルに入れ、10~12時間ほどかけて回転させることで細かい粉にしていきます。
▲トロミル。かなり大きく、一度に1tぶんの岩が処理できるとのこと。
▲トロミルの中に入れる粉砕用の硬い石(上二つ)と、トロミル壁面に張る岩(下)。いずれも日本に条件を満たすものがなく、外国から輸入しているという。


砥の粉をつくる工程3 濾過、絞る

トロミルで砕いたあと、網に通して濾過させます。
その後、沈殿したものを汲み上げ、フィルタープレスにかけて水分をとります。
▲フィルタープレス(絞り機)。濾過した液体を何枚も布を張った中に通し、砥の粉を絞り出す。40~50分ほどかかるとか。
▲濾過器。ここで、粉砕した砥の粉を網に通し、濾す。

砥の粉をつくる工程4 乾燥

 絞り出された砥の粉は、天日乾燥させます。
 完全に水気を抜くのに、1~2カ月ほどかかるとか。
▲パレットに乗せて乾かしているところの拡大図。これを粉末状にすると砥の粉になります。
▲乾燥させているところ。昔は広げていたので広大な場所が必要だったが、今は棚に乗せている。

砥の粉をつくる工程5 計量

 最後に、粉末状に加工し、軽量・梱包することで商品としての砥の粉になります。
 文化財や伝統工芸品に使われてきましたが、身近なところでもホームセンターのDIYコーナーの木工塗料へ行けば山科産の砥の粉が並んでいます。
▲できあがった砥の粉(地の粉)。進藤謙商店のWebサイトでも注文を受け付けている。
▲粉末状に加工し、自動で計量してくれる機械。


進藤謙商店(株)Webサイト:http://www.yamasina-tonoko.com/index.html

2020年06月23日

第4回 坂上田村麻呂の墓(将軍塚)


 山科についてご紹介していく「山科めぐり」。4回目の今回は、山科区勧修寺にある坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の墓に行きました。

坂上田村麻呂と山科

 平安前期の武將・坂上田村麻呂は、801年(延暦20年)に征夷大將軍となり、遠く陸奥(今の青森県・岩手県・宮城県・福島県のあたり)に出陣して蝦夷(えみし)を討ち、胆沢城(いざわじょう)などを築いたと言われています。最初の征夷大將軍のように子どものころから思っていましたが、実は2人目とのこと。
 京の都に帰ってからも「薬子(くすこ)の変」などで活躍し、後世の武士たちから尊敬されるようになりました。
 坂上田村麻呂はまた仏教の信仰も深かったことで知られています。798年(延暦17年)に京都有数の観光名所である清水寺を創建したともいわれています(清水寺の開山自体は、778年(宝亀9年)延鎮上人による)。
 亡くなったときには、嵯峨天皇の勅によってこの地に埋められることになりました。山科は平安京から東へ出入りするときの玄関口だったため、平安京を守ってもらえることを期待したのでしょう。甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺におさめられ、平安京に向かって立ったまま葬られたそうです。

▲坂上田村麻呂墓の石碑。墓の修復の際につくられた。
▲標識。北側は遊具のあるふつうの公園であり、南側にお墓がある。

ひっそりと佇む将軍塚

 このお墓は1895年(明治28年)に平安遷都1100年祭に際し整備されたとのことですが、住宅地の公園のなかにひっそりあり、石碑のひび割れや、やや傾いた様子を見ると疲れた感じがします。もう京の都は守護してもらえないかもしれません。

 余談ですが、坂上田村麻呂の墓だとされているところがあと2か所あります。一つは東山にある将軍塚で、坂上田村麻呂が亡くなった土地です。もう一つは、前回ご紹介した砥の粉工場の同じ通りを東に行ったところに「西野山古墳」があり、2007年にこちらがお墓だという説が発表されているそうです。あまりにも昔の話なので難しいところですが、これもまた歴史のロマンですね。
▲小円墳だけを斜めから見たところ。すぐ近くに住宅や小学校がある。
▲俯瞰して見たところ。石碑が少し傾いているのがわかる。


 

2020年09月04日

第5回 山科神社

 山科についてご紹介していく「山科めぐり」。5回目の今回は、山科一帯の「総社」とされてきた、山科神社を紹介します。


伏見稲荷大社の反対側、「神の山」の神社

▲山科神社に向かう途中の坂。高台にあり、登っていくのも一苦労だが、そのぶん見晴らしがよい。

そもそも山科(やましな)とは珍しい読みかたですね。 この名は古く、7世紀にはあったそうです。
 もともとは、「しな」とは坂道や階段を表し、山がなだらかな斜面となって盆地になっている地形からつけられた、と言われています(※1)。 古くは「山階」と書かれることが多かったそうで、現在でも「山階(さんかい)小学校」という学校の名前に残っています。

 山科の西側にある小高い山が稲荷山です。この山は古来から神の山として知られており、西の山麓に位置するのがあの伏見稲荷大社であり、そして東の山麓に位置するのが山科神社です。
 今年の5月に紹介した「大石神社・岩屋寺」よりもさらに奥へ登って行ったところにあります(岩屋寺はもともと山科神社の神宮寺です)。


地元の豪族の祖神から地域の産土神に

 

▲全景。手前に拝殿、奥に本殿。ここまで上がってくる人は多くはなく、ひっそりと佇んでいる。

 社伝によれば、山科神社は897年宇多天皇の勅命で創建されました。宇多天皇は菅原道真を重用し、藤原氏の政治を抑えようとしたことで有名です。
 建立当初は、宇多天皇の義母の家系であり、山科を本拠としていた宮道(みやじ)氏の祖神でした。祭神は宮道氏と縁の深い日本武尊(やまとたけるのみこと)、稚武王(わかたけるのおおきみ)です。
 もともとは宮道氏の祖神でしたが、中世に入るとしだいに地域の産土神的存在として地域に根差していきます。官祭だった「山科祭」も、鎌倉時代以降、しだいに地元住民の祭りに変化していきました。(※1)
▲境内にうっそうと茂る木々が歴史を感じさせる。


苦難の時代を乗り越えて現在へ

 

▲本殿。山科神社が最も栄えていた室町時代から建っている。
 室町時代には、幕府の庇護を受け、「山科一ノ宮」(山科で第一の宮)と呼ばれて丹波や山城に山林や田畑などの広大な社嶺地をもっていました。しかし、応仁の乱では戦火に巻き込まれま、被害を受けました(貴重な資料の多くもこのときに失われました)。
 江戸時代に入ると、徳川幕府によって社領の多くが没収されます。さらに明治初期には社寺上地令により、境内地も著しく減少し、大きな打撃を受けました(これによって現在と同じくらいの広さになりました。なんとか奮闘の時代を乗り越え、現在に至ります(※2)。
 2015年には、1120式年大祭事業の一環が開かれ、摂社・末社などが改修されました。
▲鳥居。灯篭(上の全景左下)同様に、江戸時代の初めころに建てられたとか。
▲2015年に改修された摂末社の覆屋。写真は夷社・山王社・稲荷社の三社殿。ほかに愛宕神社・弁財天社・天満宮社・春日社・竃神社が並ぶ。


 

参考文献

※1)山科神社史編纂委員会(編).(2017).『山科神社史』.イーブックマイン.
※2)吉川弘文館編集部(編).(2010).『京都古社寺辞典』.吉川弘文館.

2020年10月12日

第6回 花山稲荷神社

 山科についてご紹介していく「山科めぐり」。6回目の今回は、弊社からほど近い、花山稲荷(かざんいなり)神社を紹介します。


鍛冶の神様

▲本殿。「花山」とは、この神社によく参った花山天皇からついたとも言われる。
 花山稲荷神社は、平安時代前期の903年、醍醐天皇の勅命により創建されたと言われています。
 醍醐天皇は山科神社を創建した宇多天皇の子で、山科と関係の深い人物です。お墓も山科にあります。
 主祭神は、宇迦之御魂(うかのみたまおおみかみ)大神、いわゆる稲荷大神です。
 もともと鍛冶の神として信仰があったところに、後から稲荷大神を祀るようになったと言われております。 稲荷と鍛冶の神が結びついたのは、農機具が稲作に不可欠だったところからと考えられています。
▲本殿前の鳥居。「火山稲荷大明神」ののぼりが並ぶ。


名刀・「小狐丸」が鍛えられた地

 

▲稲荷塚。弥生時代後期の円墳ではないかと言われている。

 この神社の中心にある稲荷塚は、平安後期に三条宗近(さんじょうむねちか)が名刀「小狐丸」を鍛えたところといわれています。
 小狐丸ができるまでの物語は、能や歌舞伎、長唄、文楽の『小鍛冶』で語られてきました。
 刀を打つのは一人でできず、うまく槌を打つ弟子が必要になります(「相槌」の語源です)。刀鍛冶であった宗近は、一条天皇から名剣を打てととの命を受けます。相槌を打つ弟子がいないのでいったん断ろうとしたが、山科の花山稲荷にお参りしたところ、稲荷明神から使いの狐が表れて相槌を打ってくれたため名刀が生まれたというお話です。
▲狛犬。稲荷なので、狐が祀られている。犬と狐の両方が並ぶ神社は珍しい。
▲石碑。読みづらいが、「稲荷塚」と書かれている。


大石内蔵助との関係

▲血判石。塀の内側にあり、なかなか見つけにくい。
 「忠臣蔵」の主人公である大石内蔵助(おおいしくらのすけ)がよくお参りしたことでも知られています。
 吉良邸への討ち入りの前、内蔵助は山科に住んでいました(詳細は大石神社・岩屋寺を参照)。この時期に花山稲荷を厚く崇敬したことで知られており、花山稲荷神社は俗に「大石稲荷」と呼ばれることがあります。
 境内には内蔵助が寄進したと言われる鳥居や、内蔵助が赤穂浪士たちに血判をさせた石を見ることができます。
▲内蔵助寄進の鳥居。本殿の裏に立てかけられている。
▲断食石。本殿の前にある。内蔵助がここに腰かけて断食をしながら思考を巡らせたと言われる。


花山稲荷Webサイト:https://kwazan-inari.jp/

2020年11月13日

第7回 勧修寺

 山科についてご紹介していく「山科めぐり」。7回目の今回は、来栖野(くるすの)にある勧修寺(かじゅうじ)を紹介します。


醍醐天皇のゆかりの地

▲山門。参道の脇には、白い築地塀が続いている。
 勧修寺は、醍醐天皇の発願により創建されました。
 母・藤原胤子(ふじわらのたねこ)の冥福を祈るため、祖父である宮道弥益(みやじいやます)の邸宅を寺に変えたとされています。
 平安初期、鷹狩の折に山科の宮道弥益の家を訪れた藤原高藤(ふじわらのたかふじ)はその家の娘を見初め一夜の契りを交わします。ふたりのあいだに生まれたのが、醍醐天皇の生母である胤子です。
 勧修寺は江戸時代に再興されてから門跡寺院(皇族・公家が住職を務める寺院)となっています。
▲宸殿。明治時代には小学校(勧修小学校)の校舎として使われたとか。
▲皇室とゆかりのあることから、裏八重菊の紋様が寺紋になっている。


ユニークな「勧修寺型灯篭」

 

▲書院。宸殿のすぐ隣にあり、庭園を見渡すことができる。

 書院前庭には水戸光圀(いわゆる水戸黄門)寄進と伝える石灯籠があります。
 大きな傘をもち、長方形が基調となるユニークな形で、この灯篭をもとにして各地で似た形の灯篭がつくられるようになりました(「勧修寺型灯籠」と呼ばれる)。
灯篭の周りに生えている低木はハイビャクシンといい、樹齢750年と伝えられています。
▲水戸黄門が寄進したとされる雪見灯篭とハイビャクシン。
▲庭園のさざれ石。庭園には様々な草木が植えられており、秋には紅葉が楽しめる。


平安時代の面影を残す庭園

▲観音堂。観音様を除き見ることができる。てっぺんには鳳凰が飾られている。
 庭にある氷室池は、創建当時からこの地にあったと言われています。
 かつて豊臣秀吉が伏見街道をつくるときに半分埋め立てられましたが、江戸時代の復興の時期に合わせて庭園全体が修復されました。
 大きな池を中心に、その周囲に園路を巡らせる池泉回遊(ちせんかいゆうしき)式庭園になっております。
 山並みが美しく、初夏には睡蓮が咲き、冬にはマガモなど渡り鳥が渡来します。
▲氷室池。古くは毎年正月にこの池の氷が五穀の豊凶を占うために宮中に届けられたとされる。
▲氷室池のマガモ。睡蓮のあいだを優美に泳いでいた。


 

2020年11月19日

第8回 新十条通


 山科についてご紹介していく「山科めぐり」。8回目の今回は、ちょっと趣きを変えて、道路とトンネルのお話です。

 

「十条」は平安京にはない?

▲折上稲荷神社前。後ろに見えている山が稲荷山。稲荷山を越えた先で十条通とつながっている。

 京の都の市街地はその成り立ちから縦横碁盤の目のように作られています。
 東西に走る大きな通りには、北の一条通から南の九条通まであります。 九条通の中央の大門(朱雀大路との交点にある)を「羅生門」と言います(芥川龍之介の著作や黒澤映画でお馴染みですね)。
 あれ? 十条はありませんね。 「十条」は平安京とは関係がなく、近代になって九条の南につくられた道です。
 そして、「新十条通」はさらに最近になってつくられた道路です。

阪神高速の一部として着工

▲新十条通りの東端、外環状線と突き当たる箇所。

  ここ山科は1976年に山科区ができるまで、京都市内でも東山区の一部でした。 後から発展してきたところと言えます。
 阪神高速京都線が東山を超えて山科まで伸びるとき(1995年着工)、ここが新十条通と呼ばれるようになりました。 西は鴨川で十条通と第二京阪につながり、東は椥辻駅前で京都外環状線に突き当たる広い道路となりました。
 東山の下をくぐるトンネルを「稲荷山トンネル」と言い、2007年に開通しました。
▲椥辻駅。開業は1997年。名前が示すとおり、古くから街道どうしの交差点(辻)であった。「椥」はそこに生えていたナギの大木を指す。


空から見た新十条通

▲右側が旧道路、左側が新しく開発された道路。

 2016年の航空写真です(北が上)。下部に左右一直線に伸びている道路が新十条通りです。青色の矢印は旧安祥寺川。

 その25年ほど前、1989年の航空写真です。黄色の円の箇所を比較すれば、この道路はもともとまっすぐではなく、南へ折れ曲がっていたことがわかります。 さらに10年以上前、1978年の航空写真です。赤色の円の箇所を見てもらえば、今は稲荷山のほうにまっすぐ伸びている道が、当初は北へ伸びていたこともわかります。道幅も今よりずっと狭く、旧安祥寺川も整備がされる前です。

2019年、無料開放

▲稲荷山トンネルの入口。背景の稲荷山は、伏見稲荷大社や大石神社のある山。

  当初は高速道路の一部として有料でした。
 しかし、通行量が増えず、周辺道路の渋滞も緩和されないところから2019年に京都府・京都市が買い取り無料開放されました。
 山科と京都市の他の区をつなぐ道路として、 今日では相当量の交通量となり、新たな渋滞も起きているほどです。

 

 



2020年12月25日